犬山川祭とは

犬山川祭は、愛知県犬山市でかつて行われていた夏の伝統行事で、三光稲荷神社の祭礼として催されました。この祭は、木曽川の恵みに感謝し、地域の繁栄と無病息災を祈願するために始まり、毎年旧暦6月22日(現在の7月22日)に開催されていました。

祭の最大の特徴は、「巻藁船(まきわらぶね)」と呼ばれる特別な船を用いることでした。この巻藁船は、船の上に櫓(やぐら)を組み上げ、その上に無数の提灯を飾るという独自の構造を持ち、笛や太鼓のお囃子とともに木曽川を巡航しました。さらに、船の上から花火が打ち上げられるなど、幻想的で華やかな夜の風景が広がりました。

この川祭は、春に行われる犬山祭(陸上の車山(やま)を曳く祭り)と対をなす存在として発展しました。木曽川沿いの3町(鵜飼町、内田町、材木町)が独自に出す3艘に、犬山祭の車山を持つ13町が毎年持ち回りで出す2艘を加えた、合計5艘の巻藁船が木曽川に繰り出し、「水上の車山」として展開されていました。
運航ルートは、材木町を出発し、木曽川を上り、内田町付近まで巡航する形で行われていました。

しかし、昭和30年代半ば、犬山頭首工(ライン大橋)の建設により巻藁船の運航が困難となり、完全に途絶えてしまいました。

現在では、地域住民や犬山川祭保存会などにより祭の復活が進められています。平成時代以降、巻藁船の復元が試みられ、文化の継承が行われています。

川祭発祥の由来

犬山川祭のような巻藁船を運航する様式の祭は、古くは江戸時代までにさかのぼると考えられる夏の伝統行事です。この川祭の起源には、木曽川の水運と地域の信仰が深く関わっているとされています。

木曽川と水運の恩恵

江戸時代、木曽川は犬山の町にとって重要な交通路であり、商業や漁業、生活に欠かせない存在でした。木曽川を利用した水運が盛んで、多くの物資がこの川を通じて運ばれました。また、犬山周辺では鵜飼(うかい)が行われ、川は町の経済活動と深く結びついていました。このような川への感謝の気持ちから、木曽川を舞台とした祭が生まれたと考えています。木曽川は、単なる水路ではなく、町の暮らしと精神文化の一部だったのです。そのため、川の神々に感謝し、水の恵みを祝うために、川の上で祭を行うという発想が生まれました。

昭和初期の木曽川。伊木山から犬山城遠望。(犬山城白帝文庫提供)

三光稲荷神社の例祭

川祭は、犬山城のすぐ近くに鎮座する三光稲荷神社の祭礼として始まりました。三光稲荷神社は、もともと犬山城主が崇敬した神社で、もとは犬山城内にありましたが、明治時代初期に三光寺山(三狐寺山)へ遷座され、その後、現在の犬山城登り口の近くへ移転しました。 三光稲荷神社の祭礼は、五穀豊穣や地域の繁栄、無病息災を祈る神事として行われ、そこに町民が参加する祭として「川祭」が生まれたと考えられています。これは、春の犬山祭が陸上の車山を曳く祭であるのに対し、川祭は夏に川を舞台にして、船上の車山を運航する形で発展しました。

現在の三光稲荷神社。毎年7月22日の例祭日には、鵜飼町・材木町の子どもたちが、巻藁船を模した神輿を奉納。

川祭の歴史3つの謎

① 発祥の謎

犬山川祭の発祥は明確には記録されていませんが、文献や伝承から明治時代から大正時代にかけて始まったと推察されています。しかしながら津島や川島など、同じような様式を持つ近隣の川祭は、木曽川の水運と信仰に結びついた行事として江戸時代から行われていたとされており、犬山川祭の発祥も江戸時代までさかのぼる可能性は否定できないと考えています。

② 出来町の参加の謎

犬山川祭において、車山持ち町内ではない出来町が「玉光丸」という巻藁船を持ち、その運行を担っていたという記録が町内の古文書に残っています。その記録によると昭和10(1935)年まで祭礼費用を出費したとあり、伝承によれば、昭和27(1952)年頃まで川祭に参加していたとされています。
古写真には確かに「玉光丸」という船が写っています。また、巻藁船の運航が出来町から内田町に移行したという説もあり、車山持ち町内ではない出来町がどのように巻藁船の運航に関わっていたのかはっきりとは分かりません。

③ 川祭の消滅の謎

犬山川祭が途絶えた主な要因は、犬山頭首工(ライン大橋)の建設(昭和37(1962)年完成)により、従来のルートで巻藁船を運航することが困難になったことによるものです。
ただ一説には地域に大きな被害をもたらした伊勢湾台風(昭和34(1959)年)の影響ともされており、船が流される町内があったなど、川祭の消滅の一因になったことも否定できないと考えています。

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